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Videonews.comにて、5金スペシャルとして、
マル激トーク・オン・ディマンド 第524回(2011年04月30日) が 無料配信された。 今回は、『原子力のこれまでとこれからを問う』と題し、 Part1では、京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏のインタビューが 行われた。 今回は、原子力という大きな流れとしての話である。 大変興味深かったため、簡単なメモとしてアップしたい。 配信URL マル激トーク・オン・ディマンド 第524回(2011年04月30日) 5金スペシャル 「原子力のこれまでとこれからを問う」 ゲスト(PART1):小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教) (PART2):河野太郎氏(衆院議員)、武田徹氏(ジャーナリスト) (PART3):細野豪志氏(衆院議員、福島原発事故対策統合本部事務局長) 出演:神保哲生氏。宮台真司氏 ※誤字脱字、聞き間違え等ご了承下さい。 『原子力の専門家が原発に反対する理由』 神保氏:今日は4月27日水曜日。 水曜日の収録が異例であると同時に、 背景に小学校の教室みたいな黒板があるが、 ここ京都大学原子炉実験所にお邪魔し、 原発事故の週から毎週電話で福島原発の状況について伺って来た 小出裕章さんを訪ねた。 宮台さんは、小出さんに会うのは初めてか。 宮台氏:毎日放送の熊取6人組のドキュメンタリー以外では 拝見させて頂いた事はなかった。 参照:YouTube 【原発事故】小出裕章はなぜ警告を発し続けるのか【次はどこ?】1/4.flv 【原発事故】小出裕章はなぜ警告を発し続けるのか【次はどこ?】2/4.flv 【原発事故】小出裕章はなぜ警告を発し続けるのか【次はどこ?】3/4.flv 【原発事故】小出裕章はなぜ警告を発し続けるのか【次はどこ?】4/4.flv (画質は良くないが必見!) 神保氏:まさに研究されている原子炉の最悪の状態が 福島で起きていて、急がしい中1時間だけ時間を頂いたので、 早速本題に行きたい。 小出先生には、毎回今週の原子炉はどうなっているのか という事で新しい状況についてコメントを頂いていたが、 今日はせっかく面と向かって話せるので、 もう少し大きな話をして頂きたい。 宮台氏:インターネット含め巷では所謂御用学者批判がそれなりに展開しているが、 アカデミズムが何故原発について、中立的情報を人々に伝える事に失敗してきたのか、 あるいはわざとしてこなかったのか。 人々が事故に対し、小出先生のような少数派の意見は別として、 アカデミズムから何も情報が得られない。 価値中立的という言葉があるが、何故アカデミズムが価値中立的で無かったのか、 小出先生のような立場の方が完全に周辺化されるような 価値コミットメントがないとあり得ないような扱いがまかり通るのか、 どういうふうにして、こうなってしまっているのか伺いたい。 神保氏:原子力の本質的な部分ですね。 早速話を伺って行く上で、小出先生の著書を皆さん呼んでいる訳ではないので、 基本的な入門的な所から(伺いたい)。 小出先生は、原子力の研究者でありながら、 原子力の問題点や危険性をメディアでも広く発言されているが、 そもそも何故原子力という学問を志したのか、 お話頂けるか。 小出氏:私は東京の下町(上野)で生まれ、下町で育った。 1960年代半ばに中学高校と下町で過ごした。 その当時、東京では広島・長崎の原爆展がしきりに開かれていた事だった。 私はその原爆展を見に行き、 原爆がとてつもなく酷い兵器だという事を心の片隅に刷り込んだ。 一方では、そんな凄まじい人殺しの兵器を作りだすエネルギーがある、 という事も理解した訳で、 丁度日本ではその頃、1966年に東海1号炉、日本初の原発が動き出す、 という事になり、日本中諸手を上げて(歓迎し)、 マスコミも、政府はもちろん、皆がこれからは原子力の時代だと思っていた。 70年になると、敦賀・美浜原発が動き出すという、 建設を進めている時だった。 私も、原爆のような形で原子力を使うのはけしからんが、 そのエネルギーを平和的に使えば、きっと人類のためになると思いこんだ。 それで、原子力をやりたいと思い、 大学に入る時に、工学部原子学工学科に入った。 宮台氏:少し補足すると、「思いこんだ」と言ったが、それは実は謙遜で、 1963年、東京オリンピックの前年に原子炉実験所が出来た。 あの頃、アニメーションで「鉄腕アトム」が始まり、妹はウラン、 同じ頃、原子力潜水艦スティングレイ(「海底大戦争 スティングレイ」)という人形劇、 その後サンダーバードの3号が原子力ロケットだった。 つまり、原子力は、未来を切り開く、単なるSFではなく、 すぐに手が届く明るい未来の象徴だった。 僕も小学校の作文では、「将来原子力を研究する学者になる」と書いた位で、 実は多感な人である程、そう思ったし、 僕が東大に入った頃も進路振り分けで、原子力は電気工学と並んで点が高かった。 神保氏:成績優秀な人が行った、と。 やはり「鉄腕アトム」を見た世代か。 小出氏:そうです。 神保氏:今の話で是非訊きたいのは、 原子力は夢のある新しいエネルギーだと当時は本当にそう思っていたのか、 その後、原子力はラッピングされ実態が見えない宣伝活動がなされ、 当時ここまで原子炉の危険性が解らなかったからか、 その時実はもう始まっていたのか(危険性を感じていた)。 小出氏:たぶん私が原子力に夢を持った60年代中頃は、 危険性に対する意識は殆ど無かった。 皆が夢を持って、原子力に突っ込んで行く、 それは日本だけではなく、米国もヨーロッパもそうであり、 60年代から70年代初めにかけては、 これからは原子力だと、世界中で原発がどんどん建設される、計画される、 そういう時代だった。 神保氏:ちょっと細かい話を聞くが、 素人的に見ても、原子力は核分裂や連鎖反応など、 それをコントロール出来なければ放射能が出る、という事は怖いな、と考えるが、 当時それが解らなかったというのは、 今振り返ると、考えていなかったのか、 メリットの方が大きかったから敢えて気を配らなかったのか、 何なのか。 小出氏:それは、今神保さんがおっしゃったように、 メリットが大きかったと思いこんでしまい、 デメリットに目が行かなかったという事だと思う。 神保氏:その時は、将来は原子力だ、という時代であり、それを志したが、 どうもこれは違ったぞとなった、その転機とは、どういうキッカケだったのか。 小出氏:私が大学に入ったのは1968年、東北大学の工学部原子核工学科に行った。 東北大学は、宮城県の仙台にあり、そこは東北地方で最大の都市だった。 そこで、私は原子力をやりたくて、原子力の勉強を始めた。 大学に入った時は、ひたすら勉強をしていた。 ちょうどその頃東北電力が原発を作る計画を立ち上げた。 計画した場所が、女川町という小さな町だった。 神保氏:今ありますね、原発が。 小出氏:今回津波で被害が出た町。 仙台で直線距離で60kmから70km程離れていたと思う。 仙台には、仙台火力発電所という大きな発電所があったが、 原発を女川に作ろうとした。 当時は、私を含め、日本中が諸手を上げて原子力という時代だったと、 先ほど聞いて頂いたが、 女川町の住民が何かおかしい事に気付き、 本当に少数の人だったが、反対だと言い出した。 神保氏:作る前の段階で。 小出氏:はい。 私は原子力に夢を抱いていた訳で、 初めは、何故女川の人達が反対をするのだろう、と思った。 所が、女川町の人達の言っている事は実に単純だった。 安全だと言うが、安全なら何故仙台に作らないのか、と。 私はその問いの答えを見つかなければいけない、と思った。 それで、どうしてだろうと探し求めた訳だが、 今となってしまえば。と実に当たり前の答えしかなかった。 要するに、原発は都会では引き受けられないリスクを持っている、 それだけだった。 でも、電気を使うのは都会の人達であり、 その都会の人達はリスクは引き受けたくない、と言って、 原発を所謂過疎地と言われる所の人達に押し付ける、という事をやろうとしている、 それが、探し求めて見つけた答えだった。 その答えを知ってしまった以上は、私にとっての選択はひとつしかなく、 これはとても認める事が出来ない、止めさせようと思った。 人生の選択を180度転換し、 原子力を止めさせる、という事に力を注ごうと思うようになった。 神保氏:68年東北大学入学、72年に学部を卒業、 その後74年から東北大学大学院の原子学工学専攻に行かれた、 それは大学院の時か。 小出氏:私が180度転換したのは、1970年の10月23日。 大学3年の時。 宮台氏:10月23日という日付を何故覚えているのか。 小出氏:その時に、女川の人達が第1回の反対集会を女川町でやった。 私はその集会に参加した、という日にち。 神保氏:その日が、小出先生にとっては、 ある種人生の転機になる訳ですね。 小出氏:そうです。 神保氏:ただ、その後原子学工学科をそのまま卒業し、 74年には大学院へ行き原子学工学専攻を続けた。 原発を止めさせるという決心をした後も原子力の学究を続けたというのは、 何故か。 小出氏:とても説明し難いが、私が大学に入った68年は、 大学闘争が始まった年。 東大の青医連(青年医師連合)というお医者さん達が始めた年で、 私はその時は、大学闘争が何なのか全く解らなかった。 ひたすら原子力をやりたかったので、他の学生達がいろいろやっている時に、 「何をやっているのだろう、勉強をしないのかな」位にしか思わなかったが、 女川の問題に突き当たり、自分のやろうとした原子力が何なのかという事を、 考えざるを得なくなった。 それは所謂アカデミズムと言われているものの一端であった訳で、 先ほども宮台さんは「アカデミズムは価値中立的だ」とおっしゃったが、 アカデミズムの実態を知れば知る程、 アカデミズムは価値中立ではないと、私は思うようになった。 原子学工学科という所は、原子力発電をやろうとする牙城、 そこで私は原子力を止めさせようとした訳で、 教員達と毎日のように論争をした。 今私が言うのもおかしいが、大抵私が勝った。 そうすると、彼らが何と言ったかと言うと、 「自分には妻もいるし、子もいる」と言った。 神保氏:原子力を止めたら食べられなくなってしまうという事。 小出氏:そうです。 要するに、生活があるという事。 私と一緒に女川原発に反対していた人は、もちろん原子学工学科の中にも当時沢山いた、 大学闘争があった時代たったため。 その中で大変親しい2つ年上の友人は、 「生活を言い訳にするようなやりたくない」と言って、 どうすればいいのか、と考えた挙句、捨てるものが無くなればいい、 要するに、アカデミズムにしがみついていなければいい、と、 原子学工学科の大学院を辞め、とび職になった。 捨てるものを無くした上で、彼は女川原発の反対運動を続け、 今でもその中心メンバーになっている。 彼がそういう選択をした時、私はその選択をしない、と言った。 原子力を進めるアカデミズムの世界が現に存在に、 そういう世界の中で、原子力を反対する人間は必要だ、と思い、 私はこの場に残る、その代わり、生活を言い訳に絶対しない、 と彼に約束をし、それで私はこの場に残っている。 神保氏:小出先生はその後も原子力を研究し続けた訳だが、 原子力を止めるために、原子力を知らないと有効な反対も出来ないため、 反対する目的でその後も研究をし続けたとという理解でいいのか。 小出氏:そうです。 神保氏:今同僚の方の話や毎日論争をしたという話も出たが、 結局は原子力を推進する学問体系の中に、 小出先生は反対をするために居る、というと、 例えは卑近だが、人間関係や先生との関係が難しくなったのでは、 と想像してしまうが、 原発反対派の小出というのがうちの研究室にいる、という状態になり、 それは、どのような状態だったのか。 小出氏:大学闘争の時代だったため、 学生は否が応でも自分が学ぼうとする学問が何なのか、 という事を考えざるを得なかったし、 教員側も、日常的に学生から論争を挑まれ、 それを受け止めざると得なかった。 だが、大抵は、生活があるという事に逃げ込み、 原子力を推進するために旗を振る人が殆どだった。 私はたぶん、原子学工学科の教員の中では、随分嫌われていたと思う。 それでも、私を自分の研究室に迎えようという教授も居た。 捨てる神もいれば拾う神もいるというような状況で、 結局大学院まで学問の道を進む事が出来た。 宮台氏:生活があると言った先生方の事について伺いたい。 原子力発電に関する今日のインターネットの情報を見ると、 妥当性や合理性に関する議論は殆どなく、 まず陣営の帰属をし、誹謗中傷合戦になるケースが大半。 特に田中角栄時代の電源三法以降の 地域振興とセットになった原発政策の問題で、 現地の人にとって、原発を誘致するかしないかという生活の問題になる。 そうすると原発の妥当性・合理性の問題というより、 生活の問題が前面に出て来る。 特に田中角栄氏は、道路さえ引けないような過疎地に原発を置く、 そうすると地域が栄える、と発言している。 地元の人が、そういう政策的誘導にある種流されていくのは解るが、 どうしてアカデミズムの中心で真理性を追いかける、 当時原子力物理や核物理は僕に言わせると一番頭の良い人が行く場所だった、 最も真理性に真摯に立ち向かうはずの人であるように思うが、 どうして、そういう人達が合理性・妥当性ではなく、 生活の事を言って恥じないのか、という事がよく解らない。 小出氏:それは、私に問われても、私も解らない。 その人達に問うて下さい。 神保氏:逆に言うと小出先生のポジショニングを 原子力村の中でするというう事は、 非常に困難だったと推察するが、どうだったのか。 小出氏:原子力とは国家の根本をなす政策。 私は原子力は核と同じものだとずっと言っているが、 国家が、原子力=核をこれから進めるという事を根本に据えた訳である。 その周辺に、電力会社あるいは巨大産業が群がった。 またその周辺に、土建屋が群がった。 その周辺に、下請けと言うか、子会社が群がった。 その全部で、宮台さんが言ったように、 過疎の村々の生活を何とかしてやる、という形で、 正にブルドーザーで押し潰すような形で進めた。 たぶん誰が抵抗しても、何も出来ない時代だったと私は思う。 宮台さんの周辺の学者がどういう人達か、私には解らないが、 学者は聖人君子でも何でもない、 言ってみれば、ひとりひとり生活を抱え、 出世もしたい、名誉も得たい、給料も少しは良くなりたい、 殆どの人はそう思っている。 原子力をやろうとするなら、一番そういう所に近道なのは、 国家に協力する事。 宮台氏:小出先生の言う通り、 僕も実は、小出先生程ではないのしても、似たような経験があり、 僕は数理社会学で戦後5人目の東大の博士号を貰ったが、 実は本当にやりたい事は数理社会学ではなく、 若者の、特に宗教と性に関する文化の研究だった。 それは、「おまえ、そんな事をしていたら生き残れないぞ」と止められ、 数理社会学者のフリをしていた。 たまたま大学の講師になれたため、 もうやりたい事をやらせてもらうと宣言をし、フィールドワークに乗り出し、 特に90年代半ばは援助交際やオームの問題で いろいろ発言するという事をする訳で、 そうすると当然の事ながら、学会では周辺化される。 いろいろな人間が僕に手紙で忠告をして下さった。 君のような人々の自明性を揺るがせるような研究は許されない、 人々の心の平安を乱すような研究は許されない、と。 その意味で言うと、実は原子力の絶対安全というスローガンも、 ある種、人々の自明性、当たり前性を形作っている中で、 実際に真理性・妥当性に照らし議論を詰めると、 実は危険だというのが、人々の自明性を崩すものである。 そんなもの(研究)はしてはいけない、という ある種の正当化のロジックが働く事は、 似たような所があると想像した。 小出氏:もちろん、その通りです。 原子力に関しては「絶対安全」と国が言い続けて来た訳で、 多くの日本人は、国や東電が言っているし、事故は起きないだろう、 位にしか思わないまま、原子力を許して来たという歴史だと思う。 携わっているアカデミズムの人達も、まさか大丈夫だろう、 という位の気持ちで来たのだと思う。 神保氏:途中でそのスタンスを維持する事が困難になった、 あるいは迷いが出た事はなかったか。 流れに任せてしまえば、ある意味楽な訳で、 熊取6人組については後でお聞きしたいが、 一人では無かったと理解しているが、 それにしても全体の中では物凄い少数派で、 6人組のうち4人位はもう引退している。 今回原発事故が起きた時にも、いろいろと解らない事がある中で、 推測できる幅がかなりある訳で、 僕らは予防原則の立場で、 考え得る一番酷い状況というは何かを知る事が大事だという立場で、 小出先生に毎回話を聞いていた。 TV等は考え得る一番良い辺りの話をしていたようで、 逆にそれが疑心暗鬼を呼び、 もっとずっと酷いのではないか、と思っている人達がいて、 小出先生の話を聞いて、その辺なのね、と逆に安心するという話もある位、 半分皮肉な結果だった。 宮台氏:更に説明すると、インターネット上では、 陣営に分けた上での誹謗中傷とは別に、 一般に「安全厨」と言われている2チャンネル用語がある。 僕は原発事故の当初から、これはとても危ない可能性がある、 東電や政府の言う事を信じていたらとんでもない事になる、 というツイートを流したら、物凄く攻撃された。 不安にさせるのか、デマを流すのか、と。 後になって、安全厨の人達が流す情報の方が 逆に今「安全デマ」と言われるようなった。 そういう意味では、僕が関わっている、例えばラジオ番組なども含め、 神保さんが関わっているような一部出演したTVも含め、 実際こういう事があり、従って今はこうだから、 健康に直ちに被害があるかどうかという事ではなく、 将来どういうシナリオがあり得るのか、 例えば、ワースト・ミドル・ベスト、 どの位のシナリオの幅があり得るのかという事を言わないと、 専門的だが、ベイズ統計的な行動計画が建てられない、 と申し上げたら、これまた物凄いバッシングの嵐だった。 「やっぱり不安にさせるのかー」と。 神保氏:うち(Videonews)では小出先生がボトムを形成してくれるから、 逆に安心したと見ている人がかなりいる。 一方でTVしか見ていない人が、いきなり見ると、 そんな酷い状況なの!と言って不安を煽るなという批判は未だ来る事は来る。 連続的に見ている人達は、政府の説明が、 キャパの中のこの辺(上方)を言っている事に気付いているため、 実際はどれ位なのかは底なし沼であり、却ってあの状態だと不安になる。 再臨界は可能性はあるけど、 語弊はあるが、大した事ないと(小出先生が)言って、 皆さん救われたという事があるとか、 いろいろな話もあった。 つづき Videonews.com:4/30更新 「原子力のこれまでとこれからを問う」小出裕章氏インタビュー(2)
by Nixe_ll88
| 2011-05-02 20:33
| 政治・反戦
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