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やはり1ヶ月カキコミが出来なかった~~~
先月の21日にも1日休んで、ちょっと病院へ行ってきました。 連休明けで混んでいた為、午前中に出掛けて、帰宅3時前。 その日は疲れて何も出来ませんでした。 例の如く父のリハビリ(飲み込み)は進歩なく、このままだと、 父も母も私もダメになる!と、考え、ある結論に達しました。 要するに、がんセンターではリハビリは出来ない、 ここは、治療する場だという事。 「胃ろう」という、胃から直接管を外に通して、その管から栄養を補給する方法がある。 点滴ではどうしても栄養補給に限界があり、嫌がる父を説得し、 先月27日に胃カメラによる手術を行いました。 順調にいけば2週間で退院できる。 IVHというそれまで使っていた点滴では、家庭でのメンテが難しいが、 胃ろうにすれば、簡単に経管栄養剤をその管から直接胃に送り込む事ができるので、 家での生活も可能となる。 今のところ、経過はまあまあ順調。 さて、31キロまで落ちた体重がどこまで回復するか。 また近くに私立だが、リハビリテーション科のある病院があり、 私としては、ここで訓練が可能だと思っている。 この結論に至るのに、ある人の事情がとても大きな意味を持った。 今は部屋を変わってしまったが、前の重病人ばかりの部屋で一緒だった人の話。 放射線科だったのだが、放射線は1回の入院で何本打つか回数が決まっている。 付き添いの奥さんから、放射線治療が終わったため、 病院を移らなければならなくなった、と聞かされた。 つまり、この病院は治療する所だという事。 その人は、もう数日単位で寿命の宣告を受けているという。 それを聞いて、リハビリ施設のないがんセンターでは、 これ以上の回復は見込めないという事を確信した。 また、その部屋で向かいになっていたB島さん、 その奥さんと母が大変親しくしており、入院している本人とも親しくしていた。 そのB島さんは、喉頭がん(しかも再発)で腫瘍が喉を塞ぎ、 話は出来るが、物を口から入れられない状態になっていた。 80歳近いが、可愛げがあって、ひょうきんな人だった。 時々、記憶が混乱したり、高熱をだして歩けなくなったりしていた。 だんだん酷くなっていっていたし、痛み止めを使用するしか方法はないと、言っていた。 ある日(母が高熱を出して寝込んだ日)、その人の名前が消えていた。 同室の他の人何人かに聞いたが、朝起きたら居なくなっていたという。 私はひとり、1時間半の道のりを泣きながら家へ帰った。 そして数日後、おくやみ欄に名前が載っていた。 私はこんな所にとてもじゃないがもう通い続けられないと思った。 胃ろうを付けたはいいが、暫く働いていなかった胃腸に栄養が送り込まれ、 父は何度も下痢をしてしまった。 そのため、24時間少しずつ栄養剤を3日間入れる予定が、 5~6日続いている。 だが、頭頸科患者特有の、穴をあけた部分の糜爛はまだ見られず、 順調に安定していっているように思える。 予定では今月中旬には退院できる事になっているが、 まだ目は離せない状況である事は間違いない。 今の病室は、ナースステーションから2番目に近い大部屋。 その廊下側のベッドに、一人の患者がいる。 消化器外科の患者で寝たきりになっている。 もう80歳。 奥さんが毎日来て見守っている。 その人は、1年前に腫瘍がみつかったが、小腸の入口で難しい場所であった事と、 年齢を考慮し、手術は行わなかった。 一時期は元気になり退院し、車も乗り回したという。 今回は3回目の入院。 ミイラのようにやせ細り、内臓を溶かさないために胃液を外に出している。 もちろん点滴のみ。 その人も奥さんももう覚悟は出来ていて、宣告されてから、 財産を整理し、遺言も残し、メモを書き残したという。 そのメモに、奥さんにむけて、 「先に行って待っているから。そこは時間は止まっているんだよ」と、 書き残しているという。 奥さんは、今はもう二人とも穏やかな気持になっていると言っていた。 そして、1日でも長く一緒にいたい、と。 私に向かって、 「大学では教えてもらえない経験をここでは沢山できるでしょ?」と。 私は涙を抑える事が出来なかった。 「体を壊さないようにしてください」としか言えなかった。 そんな愛の形って、悲しすぎるけど素敵だと感じた。 がんセンターに通うようになりはっきり実感したのは、 当たり前なんだけど、 「人は死ぬまで生きている」という事。 とても強くこの言葉が心に響いている。
by Nixe_ll88
| 2004-10-04 16:23
| ひとりごと
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